沖縄の公立大学 名桜大学(沖縄県名護市)

研究コラム(つながる、つなげる教員の輪)研究

ことばの"なぜ"を考える

李 梦迪/リベラルアーツ機構/掲載日:2021年3月

 私の専門分野は中国語の文法研究です。中国語学習においては、正しく表現するために文法を学びますが、文法研究では表現の背後にある規則や原理に着目し、なぜそのように表現するのかについて探究しようとします。今日に至るまで、中国国内外でさまざまな研究が行われて、いわゆる中国語文法の体系が形成されました。しかし、他の言語同様、現在も広く研究が行われているのは、まだ解明されていない、あるいは議論の余地のある言語現象が多く残されているからです。先日、同じ文法研究を行う先生たちの間で、以下の話題が持ちあがりました。ある鹿児島出身学生が「私の故郷は滅多に雪が降らない」という文を中国語で「我的家乡很少下雪」と正しく表現しました。これに対し、北海道出身の学生が「我的家乡很多下雪」(私の故郷はよく雪が降る)と発言したところ、正しくないと指摘され、困惑してしまったといいます。北海道の学生は、鹿児島の学生が表現した動詞「下雪」(雪が降る)を修飾する副詞成分「很少」に対し、真逆の意味で「很多」を使ったのです。しかし、文法上は「很少」のみが許容され、その逆の意味である「很多」は許容されません。「多」と「少」という意味上対称的である二つの要素がなぜ非対称的な働きをみせるのか、この現象はどのような原理に支えられているのか。このような疑問を抱いたとき、文法研究の領域に足を踏み入れることになります。ことばは、私たちの世界のあり方についての理解を反映しています。いわば、物事に対する私たちの認知傾向が言語表現の不均衡を生み出していると考えられるでしょう。文法を学ぶときは、言語表現の「なぜ」について考えてみるのも興味深いかもしれません。

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李 梦迪(リベラルアーツ機構 准教授)

子どもの頃に習っていたピアノにもう一度取り組むようになりました。大人になってから再チャレンジする難しさを感じつつ、地道に練習を重ねていけば、できなかったことが必ずできるようになっていく、それを再確認できたのは収穫でした。根気よく継続することの大切さは外国語学習にも言えますね。

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