本号では前号に引き続き、齋藤孝氏による『読書する人だけがたどり着ける場所』を中心に、スポーツパーソンが読書をする意義について述べたいと思います。
読書家であるスポーツパーソンの1人に、為末大氏がいます。周知のように為末氏は、陸上競技(400mハードル)において卓抜された成績を残されました。非常に言霊を持っている方であると感じます。為末氏は自著で読書を心掛けていることを述べています。スポーツ関係者のみならず、多くの人々に影響を与える言葉を残す為末氏のバックグラウンドには、読書があります。元サッカー日本代表監督の岡田武史氏も読書家です。10年以上前になりますが、実際に講演をきいて、非常に感銘を受けました。岡田氏は経験談のみでも傾聴に値する話をたくさんお持ちですが、講演においては経験談のみならず、様々なジャンルの本について言及されていたことが今も印象に残っています。リーダーとしての資質にあふれた人であると感じました。
一方で、読書をあまり行うことなく、言霊を持っているスポーツパーソンも存在します。イチロー氏はインビューの中で、読書をあまりしないことを述べています。イチロー氏は周知のように、多くの偉業を成し遂げてきた紛れもない天才です。天才が読書をしない意味と、凡人が読書をしない意味は異なります。私達は天才であるイチロー氏の言葉から多くを学ぶことが出来ます。その言葉を知る上で、読書は有効なツールです。
齋藤氏は読書とAIの関係についてもふれています。現在の進化のスピードからは人間の想像をはるかに超える変化が起こるはずであり、その中でAIに出来ることは学ばず、AIに出来ないことだけを一生懸命に学ぶという考えはリスクになりこそすれ、人生を豊かにしてくれない。AIに負けないことを目的に据えて生きることは本末転倒であり、そのような生き方はAIに人生を明け渡してしまったようなものであると。AIが出てこようがなかろうが、自分の人生をいかに深く生きるかが重要であり、そのために本を読むことは有意義であると齋藤氏は指摘します。同感です。
私自身がそうであったように、読書と無縁の生活を送っていたスポーツパーソンこそ、読書によって得られるものは大きいと強く思います。しかしながら、このような読書の意義について、両親や友人、さらには教員から強調されても、スポーツパーソンのみならず、多くの人々が読書をすることはないでしょう。私自身もそうであったように、幼き頃から読書をすすめられ、その効用について説かれても、いざ本に向き合うと長続きしませんでした。前号でふれましたように、私が本格的に本を読み出したのは、企業に就職した後です。きっかけは多くの恥の体験です。
それまで本をほとんど読んでいなかった私には、教養が全くありませんでした。学生時代は部活動を中心に同世代で過ごすことが多いため、教養がなくても困ることはそれほどありませんでした。企業に就職した後は、配属された部署はすべて先輩社員でした。世代が異なり、興味を抱く対象も違う。さらに、自分には教養が全くない。これでは、コミュニケーションを円滑に行えるはずもありません。先輩社員からは、私が話をしやすいスポーツやトライアスロンを話題にするなど、配慮の連続でした。その他の話になると、全く入っていけないという恥の連続でした。
漫画家の小林よりのり氏は無知は恥であり、無知を誇ってはいけないと主張します。無知のまま、尊大に話す態度を勇気などと褒めてはいけないとも指摘します。小林氏は「だからわしは今でも本を読み、勉強をし続ける」と述べています。企業に就職した当時、私を読書に向かわせてくれたのは、紛れもない恥の感情でした。そして現在も本を読み続ける理由の1つに、無知を恥じるからです。「大学の先生なのにそんなことも知らないの?」という声に日々、恐怖しています。
前号では、大学生の1日の読書時間が0分の割合が48.0%であったという、全国大学生活協同組合連合会の調査を紹介しました。学生に本を読んでもらうためには、無知を恥とする感情を芽生えさせることが最も良い処方箋ですが、それは非常に難しいと日々感じています。読書を続けることで良い方法を見つけたいと考えています。
スポーツ健康学科 大峰光博