本号では前号に引き続き、観客のブーイングに着目し、ファンの在り方を再考したいと思います。本号では特に、競技スポーツの試合の本質とは何かという観点から、観客のブーイングについて考察していきます。
競技スポーツの本質は、少なくないスポーツ哲学者が指摘しているように、当該スポーツにおいて、どちらが(誰が)卓越しているかを具現化する試みです。もちろん、小学生のサッカーチームとJリーグのサッカーチームが試合を行えば、結果は予測出来ます。しかしながら、予想される結果はあくまで予測であり、原理的には試合を行うまでは、どちらが勝利するかは確定していません。試合を行うまで、どちらが卓越しているかは決定されていないため、試合を行います。その際に、サッカーやバスケットボールのようなボールゲームは、対戦プレイヤーの卓越性を消すことが求められます。シュートが得意なプレイヤーに対しては、タイトにディフェンスをすることによってシュートを打たせないようにし、また、スタミナに不安があるチームに対しては、攻守の切り替えを素早く行ってスタミナ切れを狙います。競技スポーツは、対戦チームやプレイヤーが嫌がるようなプレイをするという、日常生活で求められる倫理とかけ離れた行為が推奨されます。しかしながら、これらの行為はプレイヤー同士が互いに実践し、同意のもとになされています。
一方で観客のブーイングはどうでしょうか?観客がブーイングといった行為によって、プレイヤーの卓越性を消そうとする行為は許容されるのでしょうか?観客のブーイングは、どちらが(誰が)卓越しているかを具現化する試合に対して水を差す行為であり、当該試合の成立を破壊する行為とも言えます。ブーイングが許容されるスポーツの試合は、観客が横やりをいれて、観客がプレイヤーにハンデを与えることを容認しています。反対に、ブーイングが許容されないスポーツは、観客が横やりを入れて、プレイヤーにハンデを与えることを禁じていると言えます。
プレイヤー同士の卓越性の決定を阻害するのは、観客によるブーイングだけではありません。通常は推奨される、観客によるプレイヤーの肯定的な声援も例外ではありません。観客による熱狂的で献身的な声援が、プレイヤーの卓越性をより高めることに成功する場合があります。かたや、観客からの声援が得られないチームやプレイヤーも存在します。
禁止薬物の摂取(ドーピング)に関しては、公平性(フェアネス)を欠くという批判が展開されますが、観客の声援に対しては公平性を欠くという批判が展開されることはなく、むしろ、美談として語られる傾向があります。しかしながら、一方のチームやプレイヤーの卓越性のみを声援によってかさ上げしようとする試みは、「声援ドーピング」とも述べることが可能です。
以上の諸点から、観客はブーイングのみならず声援によっても、プレイヤー同士による卓越性の決定を破壊する存在者である点が浮き彫りになってきます。しかしながら、観客の存在なくしてプロスポーツは成立しません。この点が、スポーツに公平性(フェアネス)を求める上での構造的な問題になります。
スポーツ健康学科では、スポーツを「する」ことや「ささえる」ことだけでなく、「みる」ことについても学習します。健康支援人材の育成には、スポーツを多様な観点から「みる」力が必要であると考えています。
スポーツ健康学科 大峰 光博