東江康治名誉学長が4月5日にお亡くなりになった。88歳であった。先生は若くして琉球大学の教育学部長、学長をつとめられ、定年前に琉球大学をお辞めになると、<やんばる>と呼ばれる故郷、沖縄本島北部に大学を創設するために奔走された。1994年、名桜大学が創設されると初代学長として二期8年間、生まれたばかりの大学を一人前にするために、ときには私財をなげうって力を尽くされた。先生は名護市のご出身、沖縄本島北部に大学を創立されたそのご功績に対して、名桜大学は名誉学長の称号を授与した。
先生が琉球大学で学部長、そして学長をつとめられたのは、琉球大学が首里城址のキャンパスから現在の西原町のキャンパスに移った70年代半ばごろから80年代前半であった。1950年に創設され72年に国立大学に移行した琉大はまだ発展途上にあったので整備すべきところが多く、先生はたいへんご苦労をされたと思う。しかし、先生は常ににこやかで、粘り強く説得しながら難局を解決されていく方であった。教育学部は教員数も多く大学の中でも運営の難しいところであると言われていたが、先生は学部長として二期にわたって教育学部をまとめ、全学の信頼を集めて学長に選出された。たいへんなご苦労をされたのであろうが、そのようなことはまったく表情に出さずにお仕事をされた。学長をされたのは50代前半の頃、精力的に大学の陣頭指揮をされる先生に大学人は大きな刺激を受けて教育や研究に励んだ。琉球大学の歴史上、アメリカの大学卒で二期にわたって学長をおつとめになったのは先生お一人であり、大学の発展と国際化に多大な貢献をされた。
日曜日は、奥様とお二人で、当時浦添市の沢岻にあった県立健康増進センターのトレーニングルームで軽いウェイトトレーニングをされていた。私はカリフォルニア大学に提出予定の博士論文を抱えてストレスの多い毎日を送っていたので、週末はウェイトトレーニングで汗を流していたが、よく先生ご夫妻とお会いした。トレーニング中に一息入れながらご自身のご経験をお話くださり、博士論文執筆のアドバイスをしていただいたことが忘れられない。先生ご自身は、戦後初期の沖縄からの米国留学経験者(いわゆる「米留組」)で、学部から博士課程までアメリカの大学で学ばれ、ワシントン州立大学から心理学でPh.D.を授与されていた。
先生は、1945年に学徒兵として沖縄の地上戦に動員され、激烈な戦いを生き抜いた。特に、名護の山岳地帯の戦闘で重傷を負った先生が、森の中に隠れているところを米軍の通訳兵としてカリフォルニアからやってきた兄の盛勇氏(フランク東氏)に救出されたエピソードは、映画化されてフジテレビで全国放映された。そのような経験を有しながら、戦後はアメリカで学ばれ、沖縄の復興に尽くされた意義は語り尽くせるものではない。大学における教育と研究という点で言えば、沖縄に初めて創設された高等教育機関にアメリカ式の近代的な教育研究を導入したのは東江先生の世代の研究者たちであった。アメリカで学び、沖縄に戻ると大学の教員となり、灰燼と帰した沖縄社会の復興に大きな貢献をされた。この点で言えば、先生の世代が教授として力を振るっておられた1980年代は、沖縄の高等教育がもっとも個性的で輝きに満ちていた黄金時代ではなかったかと思っている。アメリカの大学から博士号を取得した綺羅星のような俊秀たちが教鞭を取っていて、キャンパスには自由で国際的な雰囲気が満ちていた。この時期は、日本の中でも沖縄の高等教育が先端的な制度を導入し、国際的に評価された研究者たちが活躍していた時代であった。
21世紀の日本の大学はアメリカの高等教育制度に大きな影響を受けている。特に、20世紀後半から始まった大学改革のモデルになったのはアメリカの制度であった。1945年以降に始まった沖縄の高等教育は、その誕生からすでにアメリカの制度が組み込まれ、日本の高等教育史とは異なる独自の歴史を有していた。名桜大学もそのような流れの中で誕生した大学であり、本学が建学時から「国際性」と「地域貢献」を強調してきたのはこのような歴史が背景となっている。
そのような高等教育を沖縄で創造した世代のリーダーの一人が東江先生であった。先生は、1994年に名桜大学が創設された際に、建学の精神を「平和・自由・進歩」とされた。「自由・進歩」で決定されそうになったとき、先生は最後の瞬間に「沖縄に大学を造るのだから平和も入れましょう」と提案し、「平和」の文字が加えられて本学の建学の精神が決定されたのであった。沖縄戦を生き抜き、アメリカ民主主義を学んだ先生ならではの、深い思いが刻まれた言葉である。
「平和」に対する東江先生の思いは強く、1999年には統一ドイツ初代大統領ヴァイツゼッカー氏を本学に招聘し、中庭にある野外ステージで「沖縄の未来」と題するティーチインを開催した。そのときヴァイツゼッカー氏は東アジアの平和に関して次のように発言された――「沖縄の若者であるということは、東アジアの中心にいる若者であり、その若者が平和のために力を注ぐということは、東アジア全体の平和の為に力を注ぐということになろう」。これは、現在も本学に残され、春がめぐってくる度に咲き誇る「ヴァイツゼッカー桜」とともに、「平和」という東江先生の深い願いが刻印された建学の精神を思い起こさせるものとなっている。
ティーチインの様子。東江先生とヴァイツゼッカー氏 1994年4月16日
大学創立後も先生は教育研究基金を創設するために東奔西走された。期成会を設置され3億円の基金を集められたが、これは多くの方々が先生のお人柄に魅了され、先生を深く信頼されていたからできたことであった。「北部地域に学問研究の拠点」を築くという先生の情熱はきわめて大きいものがあり、先生ご自身は在任中に給料の中から毎月20万円を基金に寄付された。この基金は公立大学法人名桜大学にそのまま引き継がれている。
先生は沖縄の高等教育発展のために無私の精神を貫かれた。本学設立年度の1994年、先生は南米のブラジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルーを訪問され、4大学と交流協定を結んだ。これには、南米の県人会の協力があったが、先生はアルゼンチンの県人会館の建設資金が足りないことを知らされるとご自身の退職金全額を寄付された。現在、本学の南米との国際交流は全国的にも顕著なものとなっている。また、本学の国際交流協定校は現在16カ国29大学に拡大している。その背景には、国際化時代を先取りし、無私の精神で国際的な信頼関係を構築していくという東江先生のお仕事があったことを忘れてはならないだろう。
本学は2014年12月に大学開設20周年・公立大学法人化5周年を祝う式典を開催した。大学の発展を象徴する6階建ての学生会館サクラウムが式典に間に合わせて竣工した。東江先生の体調は当時すでに万全な状態ではなかったが、式典に最後まで参加され、懇談会では満面におだやかな微笑を湛えて会場の中央に佇んでおられた。志を同じくする人々と力を合わせて創設した大学が、さまざまな試練をくぐり抜けて「成人式」を迎え、名護の丘に躍動感溢れる姿で立っていることを確認されて先生は深い感慨を抱かれたのだと思う。
先生は退職されてもずっと本学の教育研究学外評価委員会の委員をつとめられた。これからも多くのことについてご指導をお願いし、まだまだご相談申し上げることも多々あった。いまは先生が理想とされた高等教育に一歩でも近づくことができるよう、本学の教職員が一丸となって力を尽くすことをお誓いするだけである。先生の偉大なお仕事は、永遠に本学の教職員と学生、そして沖縄の人々の胸の中に生き続けるであろう。東江康治先生、ほんとうにお疲れさまでした。どうぞ安らかにお休みください。
歴代学長が集った開学20周年・公立大学法人化5周年記念式典にて 2014年12月21日
(左から、東江平之第2代学長、東江康治初代学長、山里勝己第5代学長、瀬名波榮喜第4代学長)